2012年5月15日火曜日

枠を越える個性 レズビアンタレント牧村朝子

 渋谷のカフェで正面に座ったとき、牧村のクリッとした目が印象的だった。小顔で童顔。身長160cm余りの華奢(きゃしゃ)な女の子。「きれいだね」と僕。すると彼女は顔を横に向けながら、「でしょお?」と言って流し目。同時にサラサラの長い黒髪が揺れ、突然艶(なまめ)かしい淑女になる。
 新宿二丁目のバーで隣に立ったときは、偶然触れ合った肩が柔らかかった。彼女は他の女の子と知り合うと、「かんわいいわね」とご挨拶。「か」と「わ」の間に甘くかすれた「ん」が混じる。女の子同士で使う「かわいい」では、初めて聞く音だった。

渋谷のカフェで。物憂げな表情で質問に答える牧村


 牧村朝子(24)は日本初のレズビアンタレント兼レズビアン・ライフサポーターだ。レズビアンの子たちを勇気づけるべく芸能活動を行っている。
 ところが意外にも、牧村は一時期レズビアンに悪いイメージを持っていた。「筋肉ムキムキの女」「フェミニズムが行きすぎた活動家」を連想しており、22歳までの12年間、「自分はレズビアンなんかじゃない」と思いながら過ごしてきた。
 きっかけは小学4年の時。クラスメートの女の子を好きになった。ところが友達の1人に言った途端、牧村はいじめの対象に。翌日からクラスメートたちに避けられるようになった。うわさが広まったのか弟にまで「このレズ」と言われる。以来、「女の子を好きになっちゃいけないんだ」と思うようになる。人間不信も始まった。
 レズビアンなどのセクシャル・マイノリティ(セクマイ)は、家族がセクマイあるいは理解者とは限らない。これが黒人の家庭なら、親は子どもに「肌の色のことで何か言ってくる奴がいるだろうけど、立派な個性なんだから胸を張りなさい」とでも言えるかもしれない。もちろん差別の重さを比べているのではない。セクマイは、「家庭」「近所」「学校」という枠では理解者を見つけにくいということだ。
 牧村はレズビアンであることを認めず、隠していた。中学時代には別の女の子が「この子レズなんだよ」と言われていじめの対象になるが、助けたら自分もそうだと思われるので沈黙してやり過ごした。個性として尊重どころか、自ら否定しフタをしていた時期だった。
 フタが外れたのは、22歳になってから。レズビアンパーティーに参加し、「女の子を好きになってもいいんだ」と思い始め、女性のパートナーを見つける。今年の5月下旬には渡仏し、パートナーと同性婚(正確には結婚ほど厳密でない民事連帯契約=PACS)する。TV番組のオーディションではレズビアンであることをカミングアウトし合格。

先にフランスに戻ったパートナーの写真を手に。「柔らかくて巨乳でかわいいの」。

 牧村は、思春期の、自我がまだ確立していない子の助けになりたいと語る。動画投稿サイト「ニコニコ動画」の生放送(ニコ生)では、主にレズビアンのテーマをめぐる番組で問題提起をしている。テーマは「レズビアン同士の妊娠・出産」「いじめの現状」といった硬派なものから、「好きな女性のタイプ」まで幅広い。視聴者のコメントもリアルタイムで返ってくる。
 また、短文投稿サイト「twitter」でのやり取りも盛んだ。
 このようにソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)を使えば、牧村は外国にいながらでも日本の子たちに情報発信ができるし、つながれる。セクマイの子たちを励ませる。SNSがある現代、物理的な距離は問題ではなくなった。
 自分の個性を責めて苦しむ第二、第三の牧村がいるなら聞いてほしい。もし、「家庭」「近所」「学校」といった枠にあなたの理解者がいなくても、今はホイホイ越えていける。

●牧村朝子
(誕生)
1987年6月24日、神奈川県相模原市で。米軍基地の近くで育つ。書道家の祖父から、「才能や自分の腕で生きる」という生き方についての影響を受ける。
(10歳前後)
小学4年の時、クラスの女の子に初恋。
(15歳)
"It is Greek to me.(ちんぷんかんぷんだ)"という表現に触れ、ギリシア語を学ぶきっかけに。英語教師の母から「何で私の娘なのに」と英語力をなじられ、もっと難解な言語を探していたときに見つけた。
(22歳)
・ミス日本ファイナリストに選出。
・レズビアンパーティーに行き、「女の子を好きになってもいいんだ」と思い始める。
(24歳)
5月下旬に渡仏の予定。(訂正。5月下旬に渡米。その後、6月に渡仏)。

(取材・執筆=真木風樹)

2012年5月14日月曜日

三春シェルターでのボランティア活動で考えさせられた - 動物も大事だけど、まずは人間でしょう

ここは福島県田村郡三春町、福島第一原子力発電所の事故による20kmの警戒区域内から保護されてきたペット達が暮らす福島県動物救護本部の動物収容施設、通称『三春シェルター』です。三春シェルターは2010年に閉店したパチンコ店を改造した施設で、普通に想像する”動物の避難所としてのシェルター”には見えず、実際に私もボランティア初日はカーナビの助けを借りてもシェルターの前を通り過ぎて、引き返すことになってしまいました。

この三春シェルターには2012年4月16日時点で犬85頭、猫45匹が常勤のスタッフとボランティアの助けを得て暮らしています。
三春シェルターは朝から賑やかです。10時前から始まる作業のために集まったスタッフやボランティアの雰囲気を感じ取った犬たちが9時ぐらいから一斉に声を上げアピールします。三春シェルターの犬舎は大型犬も暮らせる個室が78室あり、この他にクレート(キャリーケース)やケージが21個備えられています。午前の作業はこの犬舎の掃除です。スタッフの方が犬舎から1頭ずつ誘導してくる犬をボランティアが受け取り、屋根のあるパドックに係留します。犬達は喜んで走り出しますが、パドックに到着する前に我慢できなくなっておしっこやウンチをはじめる犬もいて、その排泄物の片付けにスタッフの方々が走り回ります。次に犬が出て行った犬舎の敷物とクッションの新聞紙を片付け、噴霧器による消毒液の散布と雑巾がけを行い、犬舎に新聞紙を敷き詰めて最後にクッションとなる裂いた新聞紙を二掴み撒いてパドックから犬を戻します。排泄物や獣臭でむせ返りそうになる中での作業になりますが、スタッフ、ボランティア共に犬が大好きなメンバーばかりですから協力しながら1室ごとの丁寧な掃除は進行していきます。とはいっても中腰での雑巾がけは特に大変で、三月のボランティア初日は寒さを警戒して念の為に着ていたフリースのせいで、作業用の雨合羽の中で汗まみれになってしまいました。

短い昼休みが終われば午後は散歩から始まります。広いとはいえ元パチンコ店の駐車場をぐるりと一周するだけですが、はしゃぐ大型犬に当たるとこれも大仕事です。散歩の時間が終わればパドックの消毒作業を行い給餌の時間です。犬達はご飯に大喜びで、これで満足した犬達も静かになり一日の作業が終わります。5時間ほどの作業とはいえ日頃の運動不足が祟ってへとへとにはなりますが、犬達の喜ぶ姿とスタッフや他のボランティアの方々との気持ちのいい連携作業で強い満足感を感じることが出来ました。

しかし延べ四日間の三春シェルターのボランティア作業を終えて気にかかるのは、三春シェルターの(というか被災ペット保護の)正当性(妥当性?)でした。

三春シェルターにいる犬と猫の多くは大熊町、双葉町、富岡町、浪江町、楢葉町、南相馬市(小高地区など)から避難されている方々のペットで、飼い主も誰かが判っている犬と猫がほとんどです。もちろん10万人近くの避難者の方々の、今でも大変な生活状況である事を見聞きすると、簡単に『早く引き取った方が良いのでは?』とは私には言えません。でも、これ以上の分断生活が続く事が、パートナーとしてのペットと飼い主の関係に良いものとも思えません。三春シェルターの犬や猫達も、飼い主が『譲渡可能』を認めれば新たなパートナーをとの出会いがあるのかもしれませんが、ほとんどの飼い主の方々は譲渡を認めていません。それは愛情であることがほとんどである事と信じていますが、犬達の冴えない顔を見ているとどちらが幸せなのか混乱してしまいます。
更にはキツイ言い方かもしれませんし、叩かれる事になるのかもしれませんが、三春シェルターでの被災ペットと一般的な生活困窮者である人間の待遇の差に違和感を感じてしまうのです。
三春シェルターには常勤のスタッフもいて、日本各地からのボランティアが活動に協力して日々5、6人から10人程度で運営されています。三春シェルターに収容されている犬と猫たちの総数をピーク時の200頭(匹)として10人で世話しているとすれば、人間1人当たり20頭(匹)の面倒を見ていることになりますが、民生委員の一般基準の最小単位が1民生委員あたり70世帯と比較しても厚遇されているように思えるのです。私自身もパートナーとしてのワン公と共に暮らす身としてペットを大事にはしたいのですが『まず飼い主としての人間をどうにかすべきではないのか』ではないでしょうか?

3.11に始まった大災厄の混乱は福島第一原子力発電所の事故の為に、このグロテスクな状況が終息にたどり着くところを見せてはくれません。普通であったペットも含めた家族との日常生活を取り戻せていない方々が多い現実を改めて知り、これからも自分で出来ることは協力したいと考え、矛盾を感じつつも継続して福島県動物救護本部のボランティア活動を応援します。

4日間のボランティア期間に三春シェルターに救護されているペットに面会に来た家族が一組だけありました。その家族は3人で抱えきれないほどのキャットフードを持って、お父さんと思しき人が申し訳なさそうにスタッフの方に「あいつが好きな餌を持ってきたんですが、あげられますかの~?」とて聞きながら面会に来てくれたのは私にとって救いでした。

2012年5月14日 百田 義弘

路上からの景色


 渋谷区代々木公園の朝。通勤の往来を眺めて1日の始まりを確かめる。スーツに身を固めた同じ年頃のサラリーマンたちを横目に公園のベンチから彼は何を考えていたのだろう。嫉妬か不安か、あるいは帰る家もなく公園のベンチで夜を明かさなければない境遇を生み出した社会への憎悪か。何年か前まで彼も同じように毎朝スーツを着て出勤していた。それなのに今は、代々木公園のベンチで朝を迎えている。



ー保守的なるものからの脱却ー
 塚本圭さんは、1980年生まれの31歳。京都の名門私立大学を卒業後、通信事業日本最大手の企業に就職した世に言うエリートだ。丹念に言葉を選び、呟くように喋るかと思うと、目をキラキラさせて夢を語る。そんな彼がなぜ代々木公園で寝泊まりをすることになったのか。その経緯は、やや無鉄砲ではあるが先進的で思慮に満ちている。彼は、4年間大手企業に勤めた後に28歳で退職。その後、派遣やアルバイトで食いつなぎながら在職中に始めていたブログアフィリエイトのサイドビジネスに力を入れ、30歳を手前にフリーランスとして渋谷を中心にイベントの企画・運営を手がけるようになった。

「会社という保守的な場所に留まるのではなく、自分の時間とお金をコントロールできる生活が欲しかった。」

 勤務時間と固定給に身を縛られながらの限られた生活には精神的な動きが乏しく、カネなどの物質的なものを越えていくことはできないのではないか。在学中にひとり自転車に跨がり旅した20もの国々で感じた「モノなんて最小限で良いんじゃないか」という考えは数年後に彼を大きく動かしていた。

ー東日本大震災をきっかけにそれまで住んでいた家を解約ー
 2011年3月11日。宮城県沖で発生した巨大地震は、あらゆる側面から私たちの生活に影響を及ぼした。そして、東京電力福島第一原子力発電所では地震発生から1年を経た今も大量の放射性物質が放出され続けている。

 この震災は「日本を変えた」と彼は言う。それは、官僚やマスメディアからもたらされる通り一遍な情報によるささやかな構造の変化ではなく、私たちの行動原理の奥底にある琴線が「これからの行く末」について少しずつ共鳴しだしたという意味での変化だ。この震災によって私たちはいつ死ぬのかわからないというどうしようもない恐怖に直面する共に「本当に人生これで良いのか?」という思考をし始めた。
 
 単に災害への万全な備えを用意するのではなく、老若男女が残された時間を本気で見つめ直すようになったのだ。絆という言葉が飛び交うなかで婚姻数は増加。彼の周りでも震災から1年で4組が結婚をしたという。
しかし、友人が次々と結婚をし「定住化」していくなかで、彼はそれまで借りていたアパートを解約。家を放棄した。

「『僕は逆を行こう』みんなが身を固めたがるところを僕は自由になろうと思ったんです。どんどんと。家がある時点で自由が制限されてしまうじゃないですか。守らなければならないし。」

 彼は、状況によって財産にも負債にもなる「危うい所有物」として家を捉えていたのだろう。稼いだお金を単に寝泊まりするためだけのほんの小さな所有権に充てるのではなく、すぐに移動できる状況をつくることによってより広い視野で世界と向き合っていたいと考えていたのだ。

「津波か何かの時に突然足下がグラグラになったり、そういう時に何かに寄りかかっていると一緒に倒れちゃうのでね。自分の力で立つ必要があると思うんですよ。地震が起きたら、放射能が来たらその土地を捨てる必要があるし、円が紙くずになったらどこかに行かなければならない。体制と空気感が保守的であるから、壁を乗り越えて世界に飛び立つ勇敢な若者が必要だと思う。」



ー10ヶ月間の家なしノマド生活ー
 震災当日彼は、東京にいた。インターネットをはじめ様々な媒体から被害の状況を目にして、「個人としてどう生きていくか、より深く個というものが求められているのではないだろうか」と考えていたいう。数週間を沖縄のゲストハウスで過ごし、帰京。友人宅を転々としながらフリーの仕事をするうちに、2011年4月から翌年の1月まで10ヶ月間の家なしノマド生活は始まっていた。

 持ち物は、財布、2、3日分の衣類、PC、携帯電話。それらをバッグ1つに詰めて友人の家、漫画喫茶、ホテル、公園での寝泊まりを繰り返していた。公園では寝やすいベンチを探しその上に寝袋を敷いて寝た。路上生活者は多かったが、彼らと関わり合うことはなかった。「あくまで経験としての公園生活」だと彼は言う。公園から始まる単調な1日を彼は飄々と語ってみせるが、夏の暑さ、冬の寒さ、雨風の夜を公園で明かすことの厳しさは想像を絶する。実際にお金が無いわけでも、仕事が無いわけでもなく身体も健康である。家を持つことが保守的であるからという理由でそれを放棄し、より深い個を追い求めるために公園に寝泊まりするのは大袈裟すぎる気もする。

「この家なしノマド生活は、友人やつながりがあったおかげでできたんです。家に泊めてくれたり、お風呂を借りたり、ご飯食べさせてくれたりね。自分のネットワークを広げていくと日本中、世界中がお家になりますよね(笑)」

 彼は、本当のノマド生活を手に入れるために厳しい公園生活をしていたのだろう。本来、ノマドとは中央アジアに暮らす遊牧民族をさして使われる言葉である。遊牧民と聞くと私たちは気ままで自由で牧歌的な生活をしている人たちを想像してしまいがちだが、彼らの生活は自然条件や縄張り争いなど、状況に応じて変化するため強固なネットワークと精神的にも肉体的にも個々の強さが求められるシビアなものなのだ。

 家がない代わりに彼は、「塚本圭」という個人を売ってアフィリエイト収入を手にし、イベント/セミナーを企画・運営していた。そのなかで彼のネットワークは育ち、広がっていく。そのネットワークを強固にすることで彼は本当のノマド生活を手に入れたのかもしれない。






 2012年1月に彼は10ヶ月間に及ぶ家なし生活に終止符を打った。現在は、渋谷の真ん中に仕事場も兼ねた部屋を借りている。帰る家は手にしたが、渋谷の街を拠点に日本中に広がるネットワークを自由に行き来しながら彼のノマド生活は加速しているようだ。近々、彼は四国にお遍路の旅に出るという。彼の運営するブログの読者を四国地方で広めるのが目的だ。日本中につながりを増やし、ゆくゆくは世界中をお家にするのだという。

「もうすぐ僕も世界旅人になれます。」

 少年のようなワクワクとした愛くるしい目で夢を語る彼に、戦後の日本を鞄ひとつ、リュックひとつで旅した車寅次郎や山下清を見たような気がした。

(望月一将)
     


枯れない性は果たして幸せか-老人ホームの性の現場-




寝たきりのまま、腰を振る老人男性
 
 老人ホームの一室。70歳後半の男性が4人部屋のベットの上で寝たきりになっている。男性は最も介護が必要とされる要介護5の認定を受けており、もう自分ひとりではなにもできない状態だ。実際、口から食べ物を摂取できない。胃に直接栄養を投与する胃ろうで生命を維持している。自力での排尿もすでに不可能である。そのため、尿道にカテーテル(管)を装着している。もう身体的には自力で生きることができない。だが驚くことに、老人ホームに勤務する女性職員は男性の性欲はいまだ健在だと話す。

「夜間巡回のときです。タンが絡まっているようだったんで、吸引をしてあげたんですよ。大丈夫ですか?って顔を近づけて話しかけたんです。そしたら、キスしろと言いながら、腰を振り出すんですよ」

 若い職員の口から出たその言葉に思わず面食らってしまった。もう一度確認する。80歳近い寝たきりの老人である。身体機能や生殖機能はすでに老衰しているはずだ。車椅子にも容易に乗れない。もう先があまり長くないことをわかっているからだろうか、家族も頻繁に面会に訪れるそうだ。そんな老人が若い女性についつい反応し、腰だけは動かそうとする。「にやにやして、なんだか嬉しそうな顔をしてましたよ」と職員は語る。性へのエネルギーが寝たきりの老人を突き動かしたのだ。


死を待つ場所、老人ホーム
 
 老人になり、身体機能・生殖機能が衰えると、性に無縁になるのだろうか。そんな素朴な疑問を抱いて訪れたのは、新潟県長岡市にある老人ホーム。長岡駅からバスに乗り、30分ほど揺られると最寄のバス亭につく。大きな杉の木に囲まれている農村集落のなかに目的地である老人ホームはあった。





 まるで小学校の校舎のようだ。建物のくすんだ色のおかげでなのか、花壇に植えられている花々の彩りが妙に際立っていた。施設のなかには男女約100人が住んでいる。特別養護老人ホームという特性上、入居者は身体が衰弱し、家族介護や病院治療の末に送り込まれた人たちが多い。
 
 なかに入るとアルコール消毒液のにおいが鼻につんときたが、不思議なほどに老人ホーム特有の人間臭さというか、便臭のようなものはしなかった。廊下には近々開催されるイベントポスターや保育園児の手作りメッセージカードが壁に飾ってある。施設内は清潔でいて、色鮮やかだ

 廊下を抜けたところには共同スペースがある。そこには車椅子にのった高齢者30ほどいた。しかし、入居者同士で会話をしている人はほとんどいない。車椅子に乗ったまま動くことなく、徒に時を過ごしている人が大半だった。まぶしいほどに煌びやかなお仏壇も置かれている。おそらくこの施設から回復して自宅に戻れるような人はいないのだろう。死を待つ場所。不謹慎ながらそんな言葉が浮かんできて、ぴたりと当てはまった。

 こんな場所で性にまつわる話なんて聞けるわけがない。そう思った。しかし、現実は人間の想像をいとも簡単に乗り越える。頭のなかの推測はあっさり裏切られた。
 
 寝たきりのまま腰を振る老人の話に続き、別の男性の話を女性職員が語ってくれた。
 
唯一のプライベート空間での自慰行為

「あ、そういえばお風呂場でも見たことはありますよ」
 
 今度は浴場で目撃した性の現場について話してくれた。男性は80歳前半。車椅子に乗って生活をしている。浴場内には椅子に座ったまま入浴ができる介助器具がある。その中に専用の椅子ごと入り、体を職員から洗ってもらう。洗い終わるとタンクに入っているお湯を容器いっぱいに溜めていく。男性にとっては、介護者がその場を離れてからの数分間がようやく一人でゆっくりできる入浴タイムとなるのだ。しばらくして職員が浴場へと戻ったとき、男性の様子がどうもおかしかった。

「水中のなかで、陰部を掴んで動かしていたんですよ」

どうやら自慰行為をしていたらしい。

「あんまりいじらないの。とれちゃうでしょ、といって声はかけましたけどね」

 そもそも自慰行為自体は本人の自由である。止める権限は施設側にはない。しかし、介護器具は施設共有のもの。淫らに汚してしまうわけにはいかないので一声かけたのだという。結局、陰部は「よぼよぼ」のままだったので、射精する心配はなかったらしいが。

 おそらく、この男性にとって老人ホームで一人になれる唯一の時間がお風呂だったのかもしれない。ベットにいるときは4人部屋のなかであるし、車椅子で外に出かけられるほど体は言うことをきいてくれない。入浴器械の中に浸かっている数分間が唯一のプライベートな時間であり空間であったのであろう。 

 強烈な話をしているにも関わらず、女性職員はあまり恥ずかしがる表情を見せずに淡々と語ってくれる。それもそのはずであった。職員からすれば施設内で性の現場に遭遇することはなにも珍しい出来事ではないというのだ。あまりに想像を超えた現実の連続に、頭のなかで描いていた老人像がぼろぼろと音を立てて崩れていくのがわかった。



 老人になったら性欲は枯れる。この認識は完全なる幻想であった。人間である以上、死ぬ寸前まで性と無縁にはなれないのだ。この老人ホームでのエピソードを通して、歳を重ね、身体機能や生殖機能が衰退したとしても性的欲求を失うことなく保持し続けることはわかった。だが、これは決しておめでたい話として終わらせられるほど軽い話ではない。

「高齢者になったとき、自らの性とどう付き合っていけばよいのか」

 そんな現実的で重い問いを突きつけられた気がした。誰でも訪れる老後。いずれ多くの人が当事者として向き合わねばならない問題である。超高齢社会を迎えようとしているいまこそ「高齢者の性」を見つめ直すときではないだろうか。タブー視している場合ではない。

(佐々木健太)


第6回カリキュラム その二 「記者にとっての自殺行為」

第6回カリキュラム その二 「記者にとっての自殺行為」

JSメンバーの真木が取材相手に「この件は、お仕事上の不都合を招きそうだからオフレコにしましょうか」と打診。これはやってはいけないことである。記者からオフレコを持ち出すのは自殺行為である。

さらに、書いた記事に間違いがないかを取材相手にチェックさせるのも、あってはならないことである。これでは編集権を放棄し、相手に与えてしまうことに。枝野幸男経産相が相手でも同じことをするか?枝野も今回の取材相手も違いはない。相手の職業だとか地位だとかは関係なく、取材相手だという点で同じである。

書いた記事に間違いがないかは、書いた記者がチェックするもの。さらに、その記事は記者とデスクの烏賀陽のものであるため、烏賀陽の同意なくJS外の者に見せることがあってはならない。

そういった一つ一つの判断で相談できるよう、JSでは烏賀陽と連絡を取れるようにしているのである。

※今回の活動報告は、真木風樹が自戒を込めて執筆しました。